村上春樹を読んでいると、気になる文章がありすぎる。最近では線も引きまくっているし、小説を読んでいるはずなのに、「もうこれは哲学書だな」と思うことも多い。
今回『夏帆』を読んでいて引っかかったのは、「この世界に象の卵が断じて一個も存在しないということにはならない」という一文だった。
象の卵なんて存在しない。それは当たり前のことのように思える。でも、「私たちが存在を確認していない」ということと、「絶対に存在しない」と言い切ることは、本当に同じなのだろうか。そんな一文から、人間が知っている世界と実際の世界の違い、そしてヒュームの「帰納の問題」まで考えが広がった。
村上春樹の『夏帆』で気になった一文
村上春樹の『夏帆』を読んでいて、気になった一文があった。
だからといって、この世界に象の卵が断じて一個も存在しないということにはならない。学校なんぞちっともあてにはならんぞ。どんなことにも例外というものがある
象の卵なんて存在しない。
普通に考えれば、それで話は終わる。象は哺乳類で、卵から生まれない。学校でもそう習うし、わざわざ疑うようなことでもない。
でも、この文章を読んだとき、妙に哲学的だなと思った。
「知らない」と「存在しない」は同じなのか
私たちは学校でいろいろなことを学ぶ。
象は哺乳類である。地球は太陽の周りを回っている。水は一定の条件で沸騰する。
そうやって、人間がこれまで観察し、研究し、積み重ねてきた知識をもとに「世界はこういうものだ」と理解している。
もちろん、それ自体は何もおかしくない。
ただ、ここで少し視点を変えてみる。
「私たちが存在を確認していない」ことと
「絶対に存在しない」ことは
本当に同じなのだろうか。
象の卵という例はかなり極端だけれど、この問いに置き換えると急に哲学っぽくなる。
人間が知っている世界は、世界そのものなのか。
それとも、人間が今まで観察できた範囲について説明しているだけなのか。
ヒュームの「帰納の問題」にも少し似ている
この文章を考えていて思い出したのが、哲学者デイヴィッド・ヒュームの「帰納の問題」だった。
たとえば、太陽はこれまで毎朝昇ってきた。
だから私たちは当然のように「明日も太陽は昇る」と考える。
でも、「今までそうだった」という事実だけから、「これからも必ずそうなる」と論理的に保証することはできるのだろうか。
ヒュームは、こうした私たちの認識のあり方を問題にした。
過去に何度も同じことが起きたからといって、それだけで未来にも必ず同じことが起こると論理的に保証できるわけではない、という問題。
もちろん、だからといって「明日は太陽が昇らないかもしれないから何も信じるな」という話ではない。
経験から一般的な法則を導くことは、人間が世界を理解するためには欠かせない。
ただ、それをいつの間にか「絶対に例外のない真理」として扱っていないか。
そう考えると、「この世界に象の卵が断じて一個も存在しないということにはならない」という言葉も、単なる変な冗談ではなくなってくる。
常識は世界そのものではない
私はこういう文章が好きだ。
じゃあ、「ない」ってどうして言い切れるんだろう?
普通なら「象の卵なんてあるわけない」で通り過ぎるところを、私はそこで立ち止まってしまう。
学校で習ったことも、科学的な知識も、日常の常識も、私たちが世界を見るための大切な枠組みではある。
でも、その枠組みと世界そのものは、まったく同じものではないのかもしれない。
自分が知っていることの外側にも、世界は続いている。
そう考えると、象の卵というありえないものを使ったこの一文が、急に「人間は世界をどこまで知ることができるのか」という大きな問いに見えてくる。
小説を読んでいると、ときどきこういう一文に出会う。
物語そのものとは別のところで引っかかって、そこから哲学や心理学、以前読んだ別の本へと考えが横に広がっていく。
たった一文から、まったく別の分野につながっていく。
こういう瞬間があるから、読書は面白い。



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