「亡くなる」と「死ぬ」は何が違う?婉曲表現から見える、言葉の本当の力

教養・思考

お葬式で「おじいさんが死んだ」と言ったら、たぶん少し空気が変わる。でも、「おじいさんが亡くなった」と言えば特に違和感はない。よく考えると、これって不思議だと思う。

「死んだ」も「亡くなった」も、起きた出来事としてはまったく同じだ。それなのに、一方は直接的すぎると感じて、もう一方には配慮があるように感じる。事実が変わったわけではない。変わっているのは言い方だけだ。

こういう、直接的な表現を避けて少しやわらかく言い換える表現を「婉曲表現」という。最初は単純に「日本語ってこういう遠回しな言い方が多いよな」と思って調べていたのだけれど、考えていくと、これは単なる言い換えの話ではない気がしてきた。

言葉は何かを説明するだけではなく、相手との関係を調整したり、同じ出来事の見え方を変えたりする。婉曲表現を見ていくと、普段あまり意識していない「言葉は何をしているのか」が結構見えてくる。

婉曲表現とは何か

婉曲表現とは、直接言うときつく感じたり、失礼だったり、口にしにくかったりすることを、別の言い方に置き換える表現のことだ。英語では euphemism(ユーフェミズム)と呼ばれる。

直接的な言い方 婉曲的な言い方
死ぬ亡くなる、旅立つ、永眠する
トイレお手洗い、化粧室
クビになる契約終了、退職してもらう
太っているふくよか、恰幅がいい
断る今回は見送ります、検討します
お金がない懐が寒い

ここで面白いのが、言い換えたところで意味が分からなくなるわけではないことだ。「今回はご縁がありませんでした」と言われれば、普通は不採用だったのだと分かるし、「お手洗いに行ってきます」と言われても、本当に手を洗うだけだとは思わない。

婉曲表現は意味を隠しているようで、実際には双方が元の意味を分かったまま使っている。

つまり、本当の意味を消して別のものに置き換えているわけではない。意味を共有したまま、表現だけを変えている。ここが普通の言い換えとは少し違うところだと思う。

日本語には「直接言わない」表現がかなり多い

日本語を見ていると、こういう「直接言わない」表現がかなり多い。その中でも面白いのが、昔からある忌み言葉だ。

縁起の悪い言葉を避ける

「するめ」を「あたりめ」と呼ぶことがある。「する」という音が、お金をすってなくすことにつながるので、縁起のいい「当たり」に置き換えたと言われている。

元の言葉・場面 言い換え・避ける表現
梨「ありの実」と呼ぶ
葦(あし)「よし」と呼ぶ
鏡割り「鏡開き」と言う
結婚式「切れる」「別れる」「終わる」などを避ける
葬儀「重ね重ね」「たびたび」などの重ね言葉を避ける

受験生の前で「落ちる」「滑る」を言わないようにするのもかなり近い。冷静に考えれば、「滑る」と言ったから試験に落ちるわけではない。それでも避ける。

こういうところを見ると、人間は言葉を単なる音として扱っているわけではないんだと思う。言葉と現実は別物だと分かっているのに、どこかで言葉にも現実を動かすような力があると感じている。

「死」を別のイメージに置き換える

「死ぬ」を直接言わず、「永眠する」と言うこともある。これは死を「永い眠り」に置き換えている。「旅立つ」「帰らぬ人となる」も同じだ。

表現 重ねているイメージ
永眠する死を「長い眠り」として表す
旅立つ死を「どこかへ旅に出ること」として表す
帰らぬ人となるもう戻ってこないこととして表す

起きた出来事そのものは変わらない。でも、「死ぬ」と言うのか、「旅立つ」と言うのかで頭に浮かぶイメージはかなり変わる。そう考えると、婉曲表現は事実を隠しているというより、同じ事実を別の角度から見せているとも言える。

断っているのに「断る」と言わない

日常で個人的に面白いと思うのが、社交辞令だ。「前向きに検討します」「また今度ぜひ」「今回は見送らせていただきます」。もちろん、本当に検討していることもあるけれど、文脈によっては別の意味として受け取ることもある。

表面上の言い方 文脈によって含まれる意味
前向きに検討します実際には断りの場合もある
また今度ぜひ具体的な次回を約束していない場合もある
今回は見送らせていただきます直接「断る」と言わずに断る

京都の「ぶぶ漬けでもどうどす?」が「そろそろ帰ってほしい」という意味だという有名な話もある。実際にどこまで一般的だったのかは諸説あるけれど、「直接帰ってくださいとは言わない」という話として残っているのは面白い。

こういう表現を見ると、言葉は辞書の意味だけでは読めないことが分かる。「検討します」と言ったから本当に検討するとは限らない。その場の状況や相手との関係まで含めて、私たちは言葉の意味を判断している。

そもそも、なぜわざわざ遠回しに言うのか

ここで気になるのが、なぜこんな面倒なことをするのかということだ。全部はっきり言ったほうが早い。でも実際の人間関係では、そうならない。

理由 例
相手を傷つけない「太っていますね」より「ふくよかですね」のほうがやわらかい
関係を壊さない「仕事をしたくありません」より「今回は見送ります」のほうが摩擦が少ない
その場に合わせる葬儀では「死んだ」より「亡くなった」のほうが自然に感じる

つまり婉曲表現には、情報を伝えることとは別に、人と人の間の摩擦を減らす働きがある。言っている内容そのものより、「どういう言い方で伝えるか」のほうが重要になる場面があるということだ。

ただ、ここで少しややこしいのが、この仕組みは良い方向にだけ使われるわけではないことだ。たとえば企業が「値上げ」を「価格改定」と言うことがある。価格を変えること自体は同じなのに、「値上げ」より少し中立的に聞こえる。

政治や軍事の世界でも、出来事を直接的に呼ばず、別の言葉に置き換えることがある。相手への配慮と、都合の悪い現実をぼかすことでは目的は違う。それでも、「直接言わず別の表現に置き換える」という構造だけを見ればよく似ている。

言葉は、人への配慮にも使えるし、現実をぼかすためにも使える。

やわらかくした言葉も、また生々しくなる

婉曲表現について調べていて、特に面白かったのがこれだった。せっかくやわらかい言葉に置き換えても、長く使っていると、その言葉自体がまた直接的な感じを持ち始める。

トイレの呼び方が分かりやすい。「便所」より「トイレ」、「トイレ」より「お手洗い」、さらに「化粧室」と呼ぶこともある。言葉だけはどんどん変わっていくのに、指しているものは同じだ。

便所 → トイレ → お手洗い → 化粧室

スティーブン・ピンカーは、こういう現象を「婉曲表現のトレッドミル」と呼んでいる。新しいやわらかい言葉を作っても、その言葉が同じ対象を指し続ければ、やがて元のイメージが新しい言葉にも付いていく。そして、また新しい言い方が必要になる。

1.やわらかい新しい言葉を作る

2.その言葉が同じ対象を指し続ける

3.元のイメージが新しい言葉にも付く

4.また新しい言い方を作る

ルームランナーの上を走っているように、言葉だけ変えても同じところを回り続ける。そう考えると、私たちが避けたいと思っているのは単語そのものではなく、その単語が指しているものに対するイメージのほうなのだと思う。

「死ぬ」と「亡くなる」は、本当に同じ意味なのか

ここで最初の話に戻る。「祖父が死んだ」と「祖父が亡くなった」。起きた出来事だけを見るなら、この二つは同じだ。祖父が亡くなっているという事実は変わらない。

言い方 受ける印象
「祖父が死んだ」出来事を直接的に表す
「祖父が亡くなった」同じ出来事を示しながら、態度や配慮も表す

でも、実際に人と話すときには全然同じではない。「死んだ」は直接的に感じるし、「亡くなった」には少なくとも少し配慮を感じる。つまり言葉には、「何が起きたか」だけではなく、「それをどういう態度で言っているか」まで入っている。

ここが、言葉を単純に「情報を運ぶもの」と考えるだけでは説明しにくいところだと思う。

言葉は事実を説明するだけではない

ここから哲学の話につながってくる。哲学者J・L・オースティンは、言葉には事実を説明するだけではなく、言うこと自体が行為になるものがあると考えた。

発言 言うことで行っていること
約束します約束する
謝ります謝罪する
警告します警告する

「約束します」は、約束というものについて説明しているわけではない。その言葉を言うことで、実際に約束している。「謝ります」も同じで、言うこと自体が謝罪という行為になる。

これを考えると、「死んだ」と「亡くなった」の違いも少し見えてくる。「亡くなった」と言ったとき、私は単に死という事実を伝えているだけではなく、「この話を乱暴には扱っていません」「相手や亡くなった人に配慮しています」という態度まで示している。

言葉は、世界を説明するだけではない。

その言葉を選んで口にすること自体が、一つの行為になる。

だからお葬式で「死んだ」と言って問題になるのは、情報が間違っているからではない。その場で、その言い方を選んだということ自体が問題になる。そう考えると、言葉ってかなり不思議だと思う。

じゃあ、コップを「ティッシュ」と呼んだらどうなる?

ここまで考えていて、変な疑問が出てきた。目の前にコップがある。そのコップを指して「これはティッシュです」と言ったら、これも婉曲表現なのだろうか。

普通に考えれば違う。ただ間違った名前で呼んでいるだけになる。では、何が違うのか。たぶん婉曲表現には、少なくとも二つの条件がある。

条件 内容
元の言葉を避けたい理由がある失礼、不快、縁起が悪いなど、直接言わない理由がある
元の意味が共有されている言い換えたあとも、何を指しているのか双方が分かっている

もし「コップ」という言葉が、この社会ではものすごく縁起の悪い言葉だったとする。そしてみんながコップを「ティッシュ」と呼ぶことにしていて、「ティッシュ取って」と言われたら全員がコップを渡す。

そこまで共通認識ができていれば、「ティッシュ」はコップの婉曲表現として成立するはずだ。物そのものは何も変わっていない。変わったのは、「この場ではこう呼ぶ」という共有されたルールだけだ。

おままごとも、少し似ている

逆に、その共通認識がなければ「これはティッシュです」は婉曲表現ではなく、見立てになる。子どものおままごとで「この積み木はケーキね」と言うのと同じだ。

積み木は、本当はケーキではない。

でも「この遊びの中ではケーキとして扱う」というルールを共有すれば、その場ではケーキになる。

実際には積み木だから、事実だけを見れば間違っている。でも一緒に遊んでいる人は、「いや、それ木だよ」とは言わない。「この遊びの中では、これはケーキということにしよう」というルールを共有しているからだ。

私は以前『脳と仮想』を読んだときにも似たことを考えた。人間は、物理的にそこにあるものだけを見て生きているわけではない。そこに意味や価値や物語を重ねている。そして言葉を使うことで、その見えない意味を他人と共有できる。

私たちの社会自体が「みんなでそういうことにしている」でできている

ここまで考えると、婉曲表現の話からかなり大きな話につながってくる。哲学者ジョン・サールは、社会の中には「Xは、ある文脈ではYとして扱われる」という仕組みがあると考えた。

物理的にあるもの 社会の中で共有される意味
紙お金
地図上の線国境
肩書き組織の中での権限や立場

分かりやすいのがお金だ。紙幣は、物理的に見れば紙にすぎない。でも私たちは、それをただの紙として扱わない。「この紙には1000円の価値がある」というルールを社会全体で共有しているから、実際に1000円分のものと交換できる。

国境もそうだし、会社や役職もそうだ。部長という人の身体そのものに「部長」という性質が入っているわけではない。会社の中で、その人を部長として扱うという共通認識がある。

おままごとの中で積み木をケーキとして扱うのと、規模は全然違う。でも構造だけを見ると少し似ている。そして婉曲表現も、その小さな一種として考えられる気がする。

「今回は前向きに検討します」と言われたとき、場合によっては話す側も聞く側も「たぶんこれは断りだな」と分かっている。それでも直接「やりません」とは言わない。一時的に「検討する」という形を取ることで、関係を壊さずに会話を終わらせる。

よく考えるとかなり変なやり取りだ。でも私たちは普通にやっている。

言葉の力は「本当かウソか」だけでは分からない

最初は、「死ぬ」と「亡くなるって、意味は同じなのに何でこんなに印象が違うんだろう」というだけの話だった。でもそこから考えていくと、言葉は単純に現実を説明するためだけのものではないことが見えてくる。

同じ出来事でも、どの言葉を選ぶかによって印象が変わる。相手との関係も変わる。場合によっては、その場で何かの行為まで成立する。さらに、人間同士が同じ意味を共有することで、物理的には存在しない価値やルールまで作ることができる。

そう考えると、言葉の意味を「本当かウソか」だけで考えるのは、かなり狭い見方なのかもしれない。

「亡くなる」と「死ぬ」は、事実だけを見れば同じだ。

でも、人間にとっての意味まで含めれば同じではない。私はむしろ、この事実そのものではない部分に、言葉のおもしろさがあると思う。

普段何気なく使っている「亡くなった」「お手洗い」「また今度」といった言葉にも、その裏には相手との関係や、その場で共有しているルールがある。一つひとつは何でもない表現だけれど、そこから考えていくと、人間がどうやって言葉で社会を作っているのかまでつながっていく。

婉曲表現って、思っていたよりずっと大きな話なのかもしれない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました