私たちは現実そのものを知ることができるのか

教養・思考

この記事のあらすじ

茂木健一郎さんの『脳と仮想』を読んでいて、気になったのが「私たちは現実そのものを知ることができるのか」という話だった。

私たちは普段、目の前にあるものを見て、音を聞いて、触って、「これが現実だ」と当たり前のように思っている。 でも実際には、外の世界そのものを直接経験しているわけではない。

『脳と仮想』に出てくるクオリアやモダリティという考え方から、 「自分が見ている世界は、本当に現実そのものなのだろうか」と考えてみた。

私たちは現実そのものを見ているわけではない

たとえば、目の前に赤いリンゴがあるとする。

私たちはそれを見て、「赤い」「丸い」「リンゴがそこにある」と認識する。

感覚としては、目の前にあるリンゴそのものを、そのまま見ているように思える。

でも実際には、外の世界から届いた光を目が受け取り、その情報を脳が処理することで、私たちは「赤いリンゴがある」という経験をしている。

つまり、私たちが直接経験しているのは、外の世界そのものではなく、外から入ってきた情報をもとに脳がつくり出した経験とも考えられる。

外の世界に何かが存在する
↓
目・耳・皮膚などから情報が入る
↓
脳がその情報を処理する
↓
私たちはそれを「現実」として経験する

こう考えると、私たちが知っている「現実」は、現実そのものというより、 現実をもとに脳の中につくられたもの とも考えられる。

現実の「写し」としてのクオリア

ここで出てくるのが、クオリアという言葉だ。

クオリアとは?

「赤を見たときの赤さ」「痛みを感じたときの痛さ」「甘いものを食べたときの甘さ」のような、 自分自身が主観的に経験している感覚の質のこと。

赤いリンゴを見たとき、私が直接経験しているのは「リンゴそのもの」ではなく、私の中に生まれた「赤く見える」という感覚だ。

ここが面白い。

私たちが知ることのできるものが、常にこうした「現実の写し」だとすれば、 その写しの元になった現実そのものを、私たちは直接知ることができない ことになる。

見えているから「ある」。

聞こえているから「鳴っている」。

触れられるから「そこにある」。

私たちは普段、それを疑うことすらほとんどない。

でも、厳密にいえば、それらはすべて「自分にはそのように経験されている」ということでもある。

モダリティが違えば世界の現れ方も変わる

『脳と仮想』を読んでいて、以前気になった言葉にモダリティがある。

モダリティとは?

この話では、視覚・聴覚・触覚など、 情報がどの感覚を通して経験されるのかという違いとして考えると分かりやすい。

同じ外の世界から情報を受け取っていても、それがどの感覚を通るかによって、私たちの経験はまったく違うものになる。

外の世界から情報が入ってくる
↓
目なら「色」や「形」として感じる
↓
耳なら「音」、皮膚なら「硬さ」や「温度」として感じる
↓
異なる感覚をまとめて「ひとつの現実」として経験する

外にある世界はひとつのはずなのに、私たちの中では「色」「音」「硬さ」「温度」など、まったく異なる感覚として現れる。

それなのに、それらを別々の世界だとは感じない。

視覚も聴覚も触覚もまとめて、「私は今、この世界にいる」というひとつの現実として経験している。

考えてみれば、これもかなり不思議なことだ。

「現実」と呼んでいるものはどこにあるのか

ここまで考えると、そもそも「現実」という言葉自体がよく分からなくなってくる。

目の前にある世界が現実なのか。

脳が認識した世界が現実なのか。

それとも、外界と脳の働きが組み合わさって初めて、私たちにとっての現実が成立するのか。

もちろん、「だから現実なんて存在しない」という話ではない。

むしろ私が面白いと思ったのは、外側に何かが存在していたとしても、自分自身の認識を通さずにそれを知ることはできないというところだ。

自分では世界をそのまま見ているつもりでも、実際には 「人間という生き物が認識できる形に変換された世界」 を見ているのかもしれない。

同じ世界にいても同じ現実を見ているとは限らない

この話は、心理学的に考えても面白い。

同じ出来事を経験しても、人によって受け取り方は違う。

同じ言葉を言われても、何とも思わない人もいれば、ずっと気になってしまう人もいる。

もちろん、これはクオリアだけですべて説明できるわけではない。

過去の経験、記憶、価値観、注意の向け方、そのときの状況など、私たちの認識にはさまざまなものが影響している。

でも、ここにはひとつ共通する面白さがある。

「自分が経験している世界」と「他人が経験している世界」が、まったく同じだとは限らない。

物理的には同じ場所にいて、同じものを見ている。

それでも、その人の内側に生まれている「現実」まで完全に共有することはできない。

そう考えると、人によって同じ出来事の見え方が違うのも、ある意味では当然なのかもしれない。

現実を見ているつもりで「自分の世界」を見ている

『脳と仮想』を読んでいて面白いと思ったのは、脳について考えていたはずなのに、いつの間にか哲学的な問いに入り込んでしまうところだった。

現実は、現実そのものとしては知り得ない。

私たちが知ることのできる世界は、必ず自分の感覚や脳を通過した世界になる。

普段生活するだけなら、「目の前に机がある」「外で車が走っている」で十分だ。

でも、その当たり前を少しだけ疑ってみると、こんな問いが出てくる。

自分が見ているこの世界は、一体どこまでが「現実」で、どこからが「自分」なのだろう。

外側に世界があり、それを自分が見ている。

普段はそんなふうに考えているけれど、実際には「世界」と「それを認識する自分」を、そんなに簡単に切り離すことはできないのかもしれない。

脳について読んでいたはずなのに、最後には「現実とは何か」「自分が見ている世界とは何か」というところまで話が広がっていく。

こうやって、ひとつの本から脳科学、心理学、そして哲学へと考えが横に広がっていくところも、本を読む面白さなのだと思う。

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