本を読む価値は、何ページ読んだかで決まるのだろうか。
今日、『直観を磨くもの―小林秀雄対話集―』を持ってきて読んだのは、ほんの1ページほどだった。ほとんど読み進んでいない。それでも、その1ページにあった文章が気になり、そこから考え始めた。考えているうちに別のこととつながり、さらに「これは記事にできるのではないか」と思いついた。
最初からブログの記事を書くために読んでいたわけではない。ただ、「この文章、なんか気になる」と思っただけである。しかし、その小さな引っかかりを追いかけていった結果、こうして一つの記事になった。
しかも、読んでいた本のタイトルは『直観を磨くもの』である。本を読みながら直観的に一つの文章を拾い、そこから思考を広げ、さらに直観的に「記事になる」とひらめいた。考えてみると、なかなか面白い偶然である。
最初にあったのは「なんか気になる」だった
本を読んでいて、特定の文章だけが妙に気になることがある。その瞬間に、なぜ気になったのかを説明できるとは限らない。「この文章は自分の価値観と一致しているから重要だ」と分析してから手を止めるわけではない。まず先に、
という感覚がある。そのあとで、「なぜ自分はここが気になったのだろう」と考える。
すると、以前読んだ本の内容とつながることもあれば、自分が普段考えていることにつながることもある。心理学や哲学など、別の分野で知ったことが突然頭に浮かぶこともある。最初からつながりが見えているわけではない。一つの文章に引っかかったことをきっかけに、それまで自分の中に蓄積されていたものが動き始めるのである。
「これ、記事にできる」と思ったのも突然だった
今回も、本について考えながら対話している途中で、ふと「これ、思考の記事にできないか」と思った。その時点では、記事の構成など何も考えていなかった。タイトルも決まっていない。何を書くのかも完全には整理できていない。ただ、話している途中で「これは一つのテーマになる」と感じたのである。
そこから実際に考えを整理していくと、一つの記事だけでは収まらなかった。本を読みながら、なぜ特定の文章だけが気になるのか。同じ本をもう一度読んだとき、自分の読み方はどう変わるのか。昔読んだ小説を読み返したとき、なぜ以前とはまったく違うところに目が向くのか。紙の本に残った線や書き込みは、再読するときにどんな意味を持つのか。
一つの「なんか気になる」から、別の問いが次々と生まれていった。記事を書こうとしてネタを探したのではない。考えていたら、結果として記事の種がいくつも生まれていたのである。
直観は、何もないところから生まれるものではない
直観という言葉には、何の根拠もなく突然答えが降ってくるような印象もある。しかし、実際には完全な無から何かが生まれているわけではない。
これまで読んできた本、知った言葉、経験したこと、普段から考えていること。そうしたものが自分の中には蓄積されている。だからこそ、新しい文章を読んだときに「これは気になる」と反応できる。
同じ文章を読んでも、全員が同じところで手を止めるわけではない。ある人にとっては何でもない一文が、別の人には強く引っかかることがある。さらに同じ人間であっても、読む時期が変われば気になる文章が変わることもある。そこには、それまで何を経験し、何を知り、何について考えてきたかが関係している。
そう考えると、直観は知識や思考の反対側にあるものではない。むしろ、これまで自分の中に蓄積されてきたものが瞬間的につながり、「なんか気になる」という形で表に出てくることがあるのではないか。
直観だけで終わらせず、その理由を考えてみる
もちろん、「なんか気になる」と思っただけでは、まだ漠然とした感覚である。そこで終わらず、
と考えてみる。すると、最初は説明できなかった感覚に少しずつ輪郭ができてくる。
自分はこの言葉に反応したのかもしれない。この考え方が、以前読んだものとつながっているのかもしれない。普段から自分が気にしている問題と似ているのかもしれない。そうやって言葉にしていくことで、直観だったものが思考へと変わっていく。
今回の記事も同じである。最初にあったのは、「この文章が気になる」という小さな反応だった。そこから対話しながら考えを言葉にしていったことで、「自分はなぜここに反応したのか」が少しずつ見えてきた。そして、その過程で今度は「この体験自体が記事になる」と気づいた。
まだ25ページしか読んでいない
『直観を磨くもの―小林秀雄対話集―』は、まだ25ページほどしか読んでいない。それでも、すでに何度も手が止まっている。
自分の経験から学問を始めるという話。人間は「小説的動物」であるという話。哲学をつくるためには「言葉を尽くす必要がある」という話。そして、自分の眼力と自由自在に考える力を信じるという話。まだ本全体から見れば入口にいる。それなのに、一つひとつの文章から考えることが次々と生まれている。
この本はブックオフで見つけて買った。まだ25ページしか読んでいないことだけを考えれば、買った本をほとんど消化していないとも言える。しかし、自分にとってはすでに買った意味があった。
なぜなら、この25ページから得たものは、25ページ分の情報だけではないからである。そこから自分で考え、別の知識とつなげ、新しい問いまで生まれている。
たった一つの文章によって、それまで考えていなかったことを考え始めたのなら、その時点ですでに本は何かを与えている。
今日読んだのは、たった1ページほどだった
さらに今日だけに限れば、この本をほとんど読んでいない。わざわざ持ってきたにもかかわらず、読み進めたのは1ページほどである。普通なら、「今日は全然読めなかった」と感じてもおかしくない。
そう考えると、今日は1ページ「しか」読めなかったのではない。
それなら、今日この本を持ってきた甲斐は十分にあった。
何十ページも読んだのに、ほとんど何も残らない日もある。反対に、たった一文のために本を閉じ、そのことについて長い時間考える日もある。どちらが正しい読書というわけではない。
ただ、自分にとっては、ページ数を進めることだけが本を読むことではない。どれだけ読んだかより、その本によってどれだけ思考が動いたか。そこにも読書の価値はある。
一つの文章から横にそれてもいい
本を読むと、最初から最後まで順番に読み、内容を理解して、読み終えることが一つの目標になりやすい。もちろん、それも読書である。しかし、一つの文章から横道にそれる読み方があってもいい。
哲学について読んでいたのに心理学を調べ始めてもいい。小説を読んでいたのに言葉の使い方が気になってもいい。一つの文章について考えているうちに、以前読んだ別の本を思い出してもいい。そして、本を読むことを中断して、その一文について考え続けてもいい。
ページは進んでいない。
しかし、思考は進んでいる。
今回もまさにそうだった。本そのものは1ページほどしか進んでいないのに、その1ページから話はどんどん横へ広がっていった。その寄り道の先に、この記事がある。
『直観を磨くもの』を読みながら、直観を使っていた
ここまで考えて、改めて本のタイトルを見ると少し面白い。『直観を磨くもの』。
その本を読んでいる途中で、まず「この文章が気になる」と直観的に手を止めた。その理由について考えているうちに、今度は「これ、記事になる」とひらめいた。さらに記事について考えることで、別の記事になりそうなテーマまで見えてきた。つまり、『直観を磨くもの』を読みながら、自分自身の直観によって思考を広げていたのである。
もちろん、この本を読んだから突然直観力が身についたという話ではない。重要なのは、直観そのものよりも、「なんか気になる」という小さな反応をそのまま通り過ぎなかったことなのだと思う。
何に引っかかったのか。なぜそこが気になったのか。何と何がつながったのか。なぜ突然「これについて考えたい」と思ったのか。そうした小さな反応を拾い、そのあとで考えてみる。すると、自分でも意識していなかった関心や、これまで蓄積してきた知識のつながりが見えてくることがある。
今日読んだのは、たった1ページほどだった。それでも、その1ページから一つの記事が生まれ、さらにいくつもの問いが生まれた。ブックオフでこの本を見つけて買った意味も、今日わざわざ持ってきた意味も、それだけですでに十分にあった。
そして、その思考の始まりには、「なんか気になる」という小さな直観があったのである。



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