紙の本を読む人は知的に見える? Kindleで気づいた読書と世間体の関係

考察

電車の中で紙の本を読んでいる人を見かけると、つい気になってしまう。「あの人、何を読んでいるんだろう?」と、さりげなく表紙を確認したくなる。本が好きだからこそ、他人がどんな本を読んでいるのかにも興味があるのだ。

ところが、スマートフォンを操作している人を見ても、同じような興味は湧かない。その人がSNSを見ているのか、ゲームをしているのか、それとも小説や哲学書を読んでいるのか、外からは分からないからだ。

最近は自分自身も紙の本よりKindleで読書することが増えた。便利さでは圧倒的にKindleのほうが優れていると思っている。それでも、電車でスマートフォンを使って読書していると、周囲からはただスマホを見ている人だと思われているのだろうと感じることがある。

別に誰かに読書している姿を見せたいわけではない。それなのに、紙の本を読んでいるときとKindleで読んでいるときでは、どこか感覚が違う。

そこで、ふと思った。これも一種の世間体なのだろうか。

同じ読書なのに、使う道具で印象が変わる

紙の本を読んでいる人を見れば、少なくとも読書をしていることは分かる。表紙が見えれば、どんなジャンルの本を読んでいるのかも分かるし、難しそうな哲学書を読んでいる人には知的な印象を持つこともある。

もちろん、読んでいる本だけでその人の知識や教養が分かるわけではない。それでも、私たちは目に入った情報から、無意識に相手の人物像を想像しているのではないだろうか。

一方、Kindleで本を読んでいる人はどうだろう。スマートフォンで山本七平の『「空気」の研究』を読んでいても、周囲からは単にスマホを操作している人にしか見えないかもしれない。

紙の本

読書していることも、
本のジャンルも分かる

Kindle(スマートフォン)

スマホを操作している人に
しか見えない

同じ文章を読み、同じように考えているにもかかわらず、紙の本を開いているか、スマートフォンを操作しているかという違いだけで、他人に与える印象が変わってしまう。考えてみれば不思議なことである。

読書という行為の本質は変わっていないのに、
外から見える姿によって、
その行為に対する認識まで変わってしまう。

Kindleは便利なのに、読書している実感が違う

最近は小説でも気になる文章に線を引くことが増えた。物語を楽しむだけでなく、登場人物の言葉や作家ならではの表現に立ち止まることが多くなったからだ。

その点、Kindleは非常に便利である。気になった文章をハイライトしておけば、あとから簡単に読み返せるし、何冊もの本を持ち歩く必要もない。読みたいと思ったときに、いつでも好きな本を開ける。

以前、紙の本で最後まで読んだ『「空気」の研究』も、何度でも読み返したいと思い、結局Kindle版を購入してしまった。それほど気に入った本なら、いつでも手元に置いておきたい。

最近はiPad miniでApple Pencilを持ちながら読書することもある。隣に座った人なら、画面を見て本を読んでいることに気づくかもしれないが、少し離れたところから見れば、単にタブレットを操作している人だろう。

しかし、他人からどう見えるかという問題とは別に、自分自身も紙の本を開いているほうが、読書しているという実感が強いように感じる。紙のページをめくり、今どのあたりを読んでいるのかを厚みで感じる。そうした感覚も含めて、自分の中に「読書とはこういうものだ」というイメージがあるのかもしれない。

Kindle

ハイライトで読み返せる
持ち歩きも不要で便利

紙の本

ページをめくる感覚
読書している実感が強い

紙の本とKindleでは、
他人からの見え方だけでなく、
自分自身の感じ方も違うのである。

誰にも何も言われていないのに、他人の目を想像している

最近、阿部謹也の『「世間」とは何か』という本を購入した。日本人が歴史の中で「世間」をどのように捉えてきたのかを考察した本である。

また、山本七平の『「空気」の研究』も以前から気に入っている。こちらは、人々の判断や行動を左右する、その場の「空気」について考察した本だ。

こうした本に関心を持っていることもあって、日常生活の中でも「世間」や「他人の目」について考えることがある。今回の読書の話も、その一つではないだろうか。

そもそも、電車の中でKindleを読んでいる自分に対して、誰かが「スマホばかり見ている」と言ったわけではない。周囲の人は、こちらが何をしているかなど気にも留めていないかもしれない。

それなのに、自分の中では「紙の本を読んでいる人」と「スマホを見ている人」に異なる印象を持っているため、自分も同じように見られているのではないかと想像してしまう。

ここで意識しているのは、実際の他人の評価ではない。自分自身が想像した他人の評価である。他人がどう思っているのかを確認したわけでもないのに、「きっとこう見られているのだろう」と考えている。

世間体とは、必ずしも誰かから直接評価されることで
生まれるものではないのかもしれない。
自分の中にある社会的なイメージを、
他人も共有しているはずだと考えることによって、
生まれる場合もあるのではないだろうか。

自分も他人の読んでいる本を気にしている

ただ、ここで一つ面白いことに気づく。

自分が電車の中で紙の本を読んでいる人を気にするのは、その人を知的だと評価したいからではない。単純に、何を読んでいるのか知りたいからだ。自分が読んだことのある本かもしれないし、知らない面白そうな本かもしれない。本が好きだからこそ、他人の読書にも自然と関心が向くのである。

ところが、自分が読書している側になると、今度は他人からどう見えているのかという問題になる。他人を見るときには好奇心から本に目が向いているのに、自分が見られる側になると、他人からの評価を想像してしまう。

他人を見るとき

好奇心から
本に目が向いている

自分が見られる側

他人からの評価を
想像してしまう

もちろん、周囲の人が自分と同じように本に興味を持っているとは限らない。紙の本を読んでいても、何とも思われていない可能性だってある。それでも、自分の経験や価値観をもとに、他人の視線を想像してしまう。

そう考えると、私たちは他人そのものを見ているつもりでも、実際には自分の中にある価値観を通して相手を見ている部分があるのかもしれない。そして、自分が他人からどう見られているかを考えるときにも、その価値観を使っているのではないだろうか。

読書している自分を、誰に見せたいのか

そもそも、読書は他人に見せるためにするものではない。知識を得たり、物語を楽しんだり、気になった文章について考えたりするために本を読む。それなら、紙の本でもKindleでも、本来は何も変わらないはずである。

それでも、紙の本を読んでいる人には知的な印象を持つことがあり、スマートフォンを操作している人には暇つぶしをしているような印象を持つことがある。

紙の本を読んでいる人

知的な印象

スマートフォンを操作している人

暇つぶしをしているような印象

自分自身も、そうした見方をまったく持っていないとはいえない。そして、そのイメージを自分に当てはめたとき、初めて「他人からどう見られているのだろう」という意識が生まれる。

しかし、本当に他人から知的に見られたいのだろうか。それとも、紙の本を開いている自分の姿に、読書らしさを感じているだけなのだろうか。

おそらく、どちらか一方だけではない。

他人からどう見られるかという意識と、
自分自身がどうありたいかという感覚は、
思っている以上に重なり合っているのかもしれない。

便利さではKindleを選びながらも、紙の本を読んでいる人を見かけると、つい何を読んでいるのか気になってしまう。そして、自分がKindleを読んでいるときには、周囲からただスマホを見ている人だと思われているのだろうと想像する。

誰かに何かを言われたわけでもないのに、他人の視線を意識している。そう考えると、世間体というものは、必ずしも自分の外側にだけ存在しているわけではないのだろう。

自分が他人をどう見ているか。
その見方が、今度は自分自身に向けられる。

電車の中で本を読むという何でもない日常にも、そんな世間体の働きが隠れているのかもしれない。

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