三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んでいて、とても印象に残ったのが、「情報」と「知識」の違いについて書かれた部分だった。
本書では、情報とは自分が知りたかったことそのものであり、一方の知識には、自分が最初から求めていたものだけではなく、予想していなかった文脈や偶然出会う事柄、いわば「ノイズ」が含まれていると説明されている。この「ノイズ」という考え方を読んでいるうちに、最近また本を読むようになった自分自身の変化と、ミニマリズムとの関係について考えるようになった。
📚 この本でいう「情報」と「知識」
情報=自分が知りたかったことそのもの
知識=知りたかったこと+予想していなかった文脈や偶然の出会い(ノイズ)
📖 読書には「知りたかったこと」以外も入ってくる
何かについて知りたいとき、検索すれば必要な答えにはかなり早くたどり着ける。たとえば「ヒュームの倫理思想について知りたい」と思えば、その概要だけを調べて理解することもできる。それは効率がよく、自分が求めていた情報を短時間で手に入れる方法としてはとても便利だ。
しかし、本を読む場合はそうはいかない。ヒュームについて読んでいたはずなのにカントが出てきたり、そこから「そもそも善い行為とは何なのか」と別の疑問が生まれたりする。小説を読んでいて、以前読んだ哲学や心理学の話と突然つながることもある。最初の目的から考えれば寄り道なのだけれど、最近はむしろ、その寄り道こそが読書の面白さなのではないかと思うようになった。
💡 検索では、自分がすでに「知りたい」と思っているものは探せる。
でも、自分が存在すら知らないものを、あらかじめ検索することはできない。本には、自分が探そうとも思っていなかった考え方や歴史、人物、別の分野への入口が含まれている。
🔍 欲しい情報だけを手に入れる「情報のミニマリズム」とは逆だった
ミニマリストの中には、物だけではなく情報も減らそうとする人がいる。テレビを手放したり、ニュースをなんとなく見続けることをやめたりして、自分に必要な情報だけを自分から取りに行く。必要なものだけを残し、それ以外を生活に入れないという考え方を、情報にも当てはめているわけだ。
三宅香帆さんのいう「情報」と「知識」の違いを読んでいると、こうした姿勢はある意味で「情報のミニマリズム」と呼べるのかもしれない。自分が知りたいことを検索し、その答えを手に入れ、余計な文脈には触れない。情報収集としては合理的だし、時間を有効に使うという意味でも理にかなっている。
ところが、考えてみると私はむしろ逆だった。物については減らしたいし、余計なものに時間や意識を奪われない生活のほうが好きだ。しかし、知識についてまで「必要なものだけにしたい」とは思っていない。
私の場合は、最初から何か特定の答えを得るために本を手に取るというより、「この本、面白そうだな」と思って読み始めることが多い。そして、その一冊を読んでいる途中で別の考え方に興味を持ったり、そこからまた別の本につながったりする。そうやって興味が横へ横へと広がっていくこと自体が面白い。
🔗 一冊を精読するより、横につながっていく読書が好き
一冊を最初から最後まで精読して、その本だけを完全に理解してから次へ進まなくてもいいと思っている。倫理について読んでいたら哲学へ話がそれ、哲学から心理学へ興味が広がり、小説を読んでいたら以前読んだ別の本との共通点に気づく。一冊の中だけで完結せず、話が横にそれたり、別の本や別の分野とつながったりする読み方が好きなのだ。
そうやって興味が枝分かれしていくと、何冊もの本を行ったり来たりして、全部中途半端になることさえある。効率や「一冊をきちんと読み切ること」だけを基準にすれば無駄の多い読み方かもしれないが、その寄り道やつながりをなくしてしまったら、私にとって読書はかなりつまらないものになると思う。
🏠 ミニマリズムが読書を遠ざけたわけではなかった
ここまで考えると、一見すると矛盾しているようにも思える。私は生活の中から物を減らしてきたのに、知識についてはむしろ余計なものまで受け入れたいと思っているからだ。
けれど実際には、物を減らしたことが読書を遠ざけたのではなく、むしろ物を減らしたからこそ、また本を読もうと思えるようになった。身の回りのものや、自分が管理しなければならないものが減れば、そのぶん時間にも気持ちにも余裕が生まれる。その余裕ができたことで、本を開き、すぐには役に立たないことや、最初から知ろうとしていなかったことに付き合えるようになった。
✨ 私の場合のミニマリズム
すべてのノイズを排除するのではなく、生活の中で時間や注意を奪うノイズを減らし、そのぶん読書の中にある偶然のノイズを楽しめる余裕を作ることだった。
✨ ノイズを減らした結果、ノイズを楽しめるようになった
この二つを同じ「ノイズ」という言葉で考えると、少し面白い逆転が起きている。生活の中では不要なものを減らし、できるだけシンプルにする。その結果として生まれた時間や精神的な余白には、今度は本から入ってくる予定外の知識を受け入れることができる。
物を減らす
↓
時間と気持ちに余白ができる
↓
本を読むようになる
↓
知らなかったことに偶然出会う
↓
別のことに興味を持ち、また別の本を読む
最短距離で答えを得ることとは正反対だけれど、この遠回りによって、自分の中で知識同士が少しずつつながっていく。
そう考えると、私は物についてはミニマリスト的であっても、知識についてはむしろ非ミニマリストなのかもしれない。生活そのものは整理しておきたいけれど、頭の中まで必要な情報だけできれいに整理しておきたいわけではない。むしろ頭の中くらいは、いろいろな本や考え方が少し雑然と置かれているくらいのほうが面白い。
🌿 「余白」と「空白」は違うのかもしれない
今回のことを考えていて、ミニマリズムで生まれる「余白」と、ただ何もない「空白」は少し違うのかもしれないと思った。何も入れないために場所を空けておくのではなく、まだ自分が知らないものが入ってこられるように場所を空けておく、という考え方もできる。
自分が最初から必要だと思っている情報だけを集めていると、基本的には自分がすでに知っている世界の延長線上にあるものを集めることになる。しかし読書では、自分が検索しようとも思わなかったものが突然入ってくる。その瞬間には必要性が分からなかった知識が、数か月後に別の本を読んだときにつながり、初めて意味を持つこともある。
📌 減らしたいノイズと、残しておきたいノイズがある。
生活を圧迫し、自分の時間や注意を奪うものは減らす。一方で、そこで生まれた余白には、読書からやってくる予定外のノイズを入れてみる。
三宅香帆さんの「情報」と「知識」の話を読んで、私にとってのミニマリズムは、何もない状態を目指すことではないのだと改めて思った。ノイズをなくすために余白を作るのではなく、面白いノイズが入ってこられるように余白を作る。必要なものだけを持つ生活をしながら、知識については必要なものだけに限定しない。そのくらいのバランスが、今の自分にはちょうどいいのかもしれない。

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